ひるねゆったりの寝室

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『ハリー・ポッター』シリーズとのお付き合い

この前、久しぶりに『ハリー・ポッターと賢者の石』を観た。『ファンタスティックビーストと魔法使いの旅』を観て、「ハリー・ポッター」シリーズへの熱が再び高まったのである。

私は映画の「ハリー・ポッター」シリーズにはリアルタイムで付き合ってきた。『賢者の石』を映画館で観た後、原作も読むようになり、『秘密の部屋』以降は原作を読んでから映画を観に行くようになっていた。シリーズに触れた最初が映画版だったことから、私の頭の中の「ハリー・ポッター」の世界は映画版を基本にしてできている。ホグワーツの見た目や、動く階段、肖像画、杖、ダイアゴン横丁など、原作小説を読んでいて想像するのは映画版で観た風景だ。勿論映画版より先に原作を読むようになった結果、まだ映画で触れられていない風景は自分の脳内で作るしかなく、その場合は脳内の風景と映画版の風景の二つが出来ている。

 映像化されたものから触れてしまう場合、どうしてもイメージがそちらに引き摺られてしまう。自分の想像による楽しみはどこかへ行ってしまうのだ。だが、私は「ハリー・ポッター」シリーズに関してはそれで良かったと思っている。なぜなら、映画の方が私の頭より想像力が豊かだからだ。私の頭からはどうやってもホグワーツのビジュアルは出てこなかっただろうし、ウィーズリー家の食卓を細かく想像することも難しかっただろう。

特に私の場合、小説を読んでいて景色を想像する時は、自分の知っている場所と置き換えることが多い。「ハリー・ポッター」シリーズを愛読していたのは小学校時代なので、自分の通っていた小学校の廊下や教室と置き換えていた。『不死鳥の騎士団』の神秘部の場面なんて、私の脳内では小学校の図書室である。自分の頭ではどうしてもスケールダウンしてしまうところを、映画は細やかなディテールや予想外のデザインで見せてくれる。映画版はカットしている場面が増え、勿体なく思う事も多かったが、新しいビジュアルを多く見せてくれたのは間違いない。

『賢者の石』はハリーが初めて魔法界に来たワクワクした気持ちを、ディテールで見せる作品だ。煉瓦が崩れてダイアゴン横丁が眼前に広がる衝撃や、箒に乗って飛ぶ躍動感、動く写真に肖像画、マグルの世界とは違う習慣など、初体験のつるべ打ちだ。その「初めて」をハリーと一緒にスクリーンで体験できたのは幸運な体験だった。そしてそれは『ファンタスティックビースト』にも受け継がれている。自分の想像を大きく超える体験を、これから4作も味わえるなんて、幸せなことだ。今の小学生や中学生がワクワクできるようなシリーズになったらいいな、とも思っている。そんな期待をしながら『秘密の部屋』を観て、次作を待つことにする。

【ネタバレ】映画『この世界の片隅に』感想―戦争映画です。でも、笑っていいんです

映画『この世界の片隅に』を観に行った。

浦野すずという絵を描くことと空想が大好きな女の子が広島に育ち、呉の北條家に嫁いで生きていく。その人生と重なるように太平洋戦争が本格化し、その生活にじわじわと影を落としていく物語だ。

 

この映画では笑えるところがたくさんある。すずが余りにもぼんやりとしているため、小さな失敗を繰り返す。それは決してすずを笑いものにするような冷たいものではない。周囲も愛らしさを感じていたし、何よりすずがそれにくよくよしない。すずを気に入らずにちょっかいをかけてくる義理の姉ですら懐柔する大物感だ。

その笑いは戦争の生活苦ですら笑えるシーンに変える。少ない配給と野草を駆使して楠木公の料理を再現するすずの姿は生き生きとしており、その自慢げな様子からの「まずい」というオチは、作中でもかなり手の込んだギャグに仕上がっている。

場内も笑いに包まれており、前半は和やかな空気の中進んでいく。

 

ところが、後半に入ってそれが一変する。

空襲を受けた後、町を歩いていたすずと姪・晴美は不発弾の爆発に巻き込まれてしまう。その時、すずは右腕を、晴美は命を失くしてしまうのだ。

空襲警報に早朝から起こされ、防空壕の中でご飯を食べ、「警報もう飽きた」と晴美が言うほどに空襲が日常化していた矢先の出来事だ。心のどこかで「この映画は空襲で身近な人が死ぬタイプの作品ではないんじゃないか」と思い始めていたため、ショッキングだった。

そのショックはすずにも降りかかる。義理の姉からは「人殺し」と罵られ、片腕を失くしたから家事も十分にできず、家のお荷物となっていく。すずの顔からも笑顔が消えた。

多くの人から「生きていてよかった」と言われたことを思い返し、「何が良かったんだろう」と独白する場面はその極致だ。生きがいだった絵を描く事ももうできない。すずにとって、右手はただの道具ではない。絵を描き、料理を作り、裁縫をし、家族と手を繋いだ、人生の記憶がつまった宝物だったのだ。

 

笑顔を失ったすずの思いが爆発する、終戦直後のシーンがある。

「最後の一人まで戦うんじゃなかったのか! この左手も、両足だってまだあるのに!」とラジオに向かって叫ぶすず。そして、「ずっとぼおっとした自分でいたかった」と涙をこぼす。ここで前半の描写の意味が大きく変わる。生活苦の中の笑いは、何もすずの人格だけに由来したものではなかったのだ。あれは苦境を乗り越えようとする、すずや人々の戦いだったのだ。戦争が忍び寄ってきても「変わらない暖かな家族」だったのではない。戦争が日常に表れたからこそ、「変わらない暖かな家族」を演じなければならなかったのだ。

 

勝つために苦難に耐えるという目標が無くなった後も、すず達は生きていく。

「晴美ちゃんは笑うことが好きだったから、笑うことにしたんです」とすずが語った時、私は「この映画で笑ったことは、正しかったんだな」と思った。演じていた部分もあるだろうけれど、その笑顔は嘘だったわけではない。宝物の腕を失くしても、大切な家族が亡くなってしまっても、生きていかなければならない。人生先は長いのだから、笑ってもいいのだと。そんな風に、背中をさすってくれるような映画だった。