ひるねゆったりの寝室

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『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 〈ワルプルギスの廻天〉』の感想に見せかけた自分の話

2026年8月28日、『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 〈ワルプルギスの廻天〉』が前作から13年越しに公開された。観終えた今、非常に満足している。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の公開当時、『新世紀エヴァンゲリオン』のリアルタイム世代の、憑き物が落ちたような感想が盛んに投稿されていたが、まさに自分の世代にとっての『エヴァ』こそ、『まどマギ』だと思った。

 

TVシリーズ放送当時、私は高校1年生だった。リアルタイムでは視聴しておらず、周囲の熱狂に戸惑っていたというのが正直なところだ。そして、夢中になっていた一人が、同級生のK君だった。彼は私に文字通り『まどマギ』を布教し、私も「いい作品だな」と気に入った。その後、『[新編]叛逆の物語』に個人的にハマったり、大学の友人達と展示会に行ったりして、「誰かと一緒に楽しめる同時代的作品」という位置づけが自分の中に形成されていった。

2021年に『〈ワルプルギスの廻天〉』の公開が発表されたとき、私は社会人になっていて、東京に暮らしていた。K君も東京に来ていたから、公開の暁には誘って観に行こうと勝手に思っていた。学生時代の友人とは就職後に疎遠になりやすい。私とK君も一年か二年に一度会う関係だったが、コロナ禍もあって気軽に遊びに誘いにくく感じていた。でも、『まどマギ』というきっかけがあれば誘いやすい……そんな風にぼんやりと考えていた。

しかし、K君は2022年に帰らぬ人となった。

 

その時から私の中で『まどマギ』の存在は大きく変わっていった。高校時代の記憶がだんだん薄れていく中で、K君との思い出のひとつとして『まどマギ』の輪郭が濃くなっていく。彼に教えてもらわなければハマることもなく、むしろ流行りものとして忌避していただろう。自分が『まどマギ』に好意的なこと自体が、K君が確かに存在していたことの証明なのだ。

 

こういう風に、私の中ではK君は非常に重要な人物だが、K君の側もそうだったのかは、正直分からない。これはK君に限らず、私から友人に対しての距離感は常に似たようなものだ。『まどマギ』の11話に下記のセリフがある。

 

ほむら「ごめんね……わけ分かんないよね……気持ち悪いよね……」

 

まどかと自分の思いの差に苦しむほむらの悲痛な独白だ。三十年ほど生きているうちに、私はこのセリフを自分事として聞くようになった。自分では友人だと思っているが、向こうがどう思っているか、どの程度の友情を感じているのかわからず、いつも苦しい。「たった一人の、私の友達」とまどかに執着するほむらの視野の狭さが強い共感を誘う。『[新編]叛逆の物語』が好きなのは、そのほむらの「気持ち悪さ」が存分に描かれているからかもしれない。

 

公開初日である今日の朝も、悩んだ末にK君の写真を持って家を出た。私が持っている彼の最新の写真をICカードホルダーに入れて、初日初回上映に臨んだ。8割がた埋まっている劇場の座席を見ると、30代らしき人が多く、まさに自分の同年代ばかり。K君もここにいるはずだったと思うと、強い寂寥感に襲われる。それに、K君と同様に観ることのできなかった人がたくさんいるんだろう、という思いも脳裏をよぎった。

 

そして始まった『〈ワルプルギスの廻天〉』。ネタバレは避けるが、とにかく画面に圧倒され続けた。私の世代にとって「シャフト」は特別なアニメスタジオだ。現実世界ではありえない美術、平面を強調する画面構成、極端なアップや作画トラックアップ、実写素材の貼り込み、(別作品だが)文字演出、極め付きは首を思い切り傾ける「シャフ度」……。作品をまたいで独特な画面作りをおこなった結果、アニメスタッフにマニアックでなくても、ついつい「シャフトだから」と言いたくなる個性を獲得していた。

『まどマギ』はそのシャフトの個性が爆発しており、『〈ワルプルギスの廻天〉』ではそれの別の形を観ることが出来た。当時シャフト的だなと思った演出は控えめで、むしろ小物や大道具の密度で魅せていく方針になっており、シネマスコープサイズに転換した効果を強く感じる。観ていて疲れるほどだが、今『まどマギ』をやるならこれだけの情報量をもたらさなければならない、というのはよく分かった。

 

ストーリーは、やはりほむらとまどかの友情が大きなカギを握る。前作でほむらはまどかを人間に戻すため、一計を案じた(敢えて乱暴にこうまとめる)。本作ではそれが正しいことだったのかが問われる。まどかが円環の理に戻ることは、いわば人間としての死であり、ほむらがそれを止めようとするのは自然な成り行きだ。大切な友達に生きていてほしいと願うほむらの気持ちは、今の方が理解できる。それはK君がいなくなったことと深く結びついているので、複雑な心境でもあった。

その分、終盤のある展開では思わず涙した。ほむらに共感して心を揺さぶられたのか、個人的な思いを重ねてしまったのか、それはもはや分からない。自分の中で『まどマギ』が重要な作品に育ちすぎてしまい、冷静に観察することが出来ないのだ。だが、そこにカタルシスが宿っていたのも事実で、そのおかげで自分はとても満足した。

 

誰かの熱狂が伝わって自分の大事なものになる。それ自体はままあることだが、ここまで長く関わってくるとなると、『まどマギ』以外にはない。13年のブランクがあるからこその思い入れが洗われるような、唯一無二の体験だった。

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『アメリと雨の物語』を観た

現在上映中のアニメ映画『アメリと雨の物語』を観てきた。

原作はアメリー・ノートンの「チューブな形而上学」、監督はマイリス・バラード、リアン=チョー・ハン。脚本は監督2名に加え、エディン・ノエル(美術も兼任)。音楽は日本人音楽家の福原まり。

 

海外アニメをあまり観ていない自分が即座に連想したのは、新海誠の『言の葉の庭』だった。題材に「雨」が絡んでいるからだけでなく、光の反射を複雑にとらえた美術、環境光を意識したキャラの配色、水の塗り分けの細やかさ……そして何より、日本家屋を瑞々しく描く感性。それらが共通していると感じた。

SNSでは時折、美し“すぎる”写真が話題に上がる。無加工の素材よりも遙かにビビッドに、そしてハイコントラストに仕上げられた写真は、耳目を集めやすい。その華美さに対して議論はあれど、「風景を美しく感じた気持ちを表現したい」という意思があること自体は、多くの人に理解してもらえるはずだ。

『アメリと雨の物語』と『言の葉の庭』も手法は正反対ながら、同様の意思を感じる。『言の葉の庭』では美術を精緻にすることで感動を呼び起こしているが、本作『アメリと雨の物語』では敢えてディテールや輪郭線を省略することで、「理想化された子供時代」「記憶の中だけにある大切な風景」を強く印象付けているのだ。

 

ストーリーの話に移ろう。舞台は1960年代の日本の神戸(作中では関西と呼んでいたかも)。ベルギー人の少女アメリを主人公に、彼女が見るものすべてに刺激を受ける一方で、初めて触れる死や喪失を通して成長していく子ども時代を描いた物語だ。幼い子どもが三人いるアメリの家には、家政婦として「ニシオさん」という女性がやってくる。アメリは日本の様々な文化を教えてくれるニシオさんにすっかり懐き、二人の間には年齢を超えた友情が育まれていく。

このニシオさんとの日々を描いた中盤のシークエンスが兎角素晴らしい。セリフがほとんどない中で、ピアノの劇伴と共に、二人で家事をしたりおしゃべりをしたり……といった日常の風景が紡がれる。洗濯物を干すニシオさんの後について、シーツにくるまったアメリが一回転する描写なんて、アメリがいかにニシオさんに心を許しているかが伝わってきて、それだけで感動する。

そんな二人の絆を試すのは、太平洋戦争の爪痕だ。敗戦国の人間であるニシオさんや、登場するもう一人の日本人・カシマさんにとって、欧米系の外国人は自分たちの家族を奪った仇なのだ(ベルギーと日本が直接敵対していないとしても)。ニシオさんとアメリは互いに愛し合いながらも、自分たちにはどうすることもできない歴史の前に、一度引き裂かれてしまう。そして孤独になったアメリをさらに、絶望の底へと突き落とす仕打ちが待っていて――

中盤に幸せな描写がある分、終盤の試練が観客である私にとっても、辛く痛いものだった。「子ども時代の万能感の喪失」は色んな作品で描かれているが、『アメリと雨の物語』で描かれた挫折は大人でも乗り越えがたい壁で、アメリの絶望が決して他人事ではないと感じさせる。

また、絶望が深まっていく過程で背景が暗く色褪せていくのも、世界からの祝福を失ったアメリの心境にシンクロしていてとても良い。

 

絶望の淵に立つアメリに希望をもたらすのは、過去の美しい風景たちだ。そのシーンのラストを、ニシオさんがアメリに「雨」という字を教えた回想が飾る。この回想シーンがまた手が込んでいて、窓の向こうから「現在のアメリ」が過去の自分たちを見つめているという構図になる。
この時、画面の手前から、過去のアメリたち⇒結露した窓ガラス⇒結露に指で書いた文字⇒文字の向こうに見える現在のアメリ……という複雑なレイヤー構成になっている。現在のアメリの肩ナメで過去の景色を映す、という見せ方でも成立しそうなところを、敢えて複雑な構図にして「過去のニシオさんが現在のアメリを励ましているようにも見える」という別の効果も上乗せしている。物語上の意味に加えて、演出の力強さの点でも感動がプラスされる名シーンだと思う。

 

最後にアメリが辿り着く「与えられたものが奪われてしまうなら、覚えておくしかない」という、諦念とささやかな抵抗が入り混じった結論も素敵だ。人は生きている限り、忘れることから逃れられない。本作のアメリもきっと、ベルギーに引っ越したあとで、日本の記憶を少しずつ失っていくだろう。けれど、おでこについた傷を見たり、兄が撮った写真を見返したりすれば、多少なりとも忘却を避けることができる。時間が経過したあとも残っている記憶は、多分に美化されていたり、事実と異なる風景になっていたりするはずだが、それもまた本人にとっては真実なのだろう。

そして、「美しい子ども時代を覚えていよう」という前向きな方向性だけでなく、ニシオさんが直面したような「大切な人の死」においても、この結論は発揮される。作品の中盤で、ニシオさんは海水浴帰りのアメリから空の瓶を渡される。それは他愛もないお土産なのだが、ニシオさんは瓶の蓋を開けた途端、かつて家族と海に行った時の記憶が蘇る。
戦争によって大事な家族を奪われても、幸せだった記憶は誰にも奪えない。ニシオさんは思わずアメリを抱きしめてお礼を言う。はっきりとは言わないが、きっとニシオさん自身も思い出せずにいた大切な記憶だったのだろう。心の傷が完治することはなくても、多少の癒しにはなる。その意味でも、「覚えておくこと」は重要なのだ。


映像の美しさもさることながら、アメリの持つ「小さな世界」とニシオさんの持つ「少し大きな世界」が重なって、互いの人生に影響を及ぼしていく様子がとても好ましくて胸を打たれる映画だった。

 

余談だが、『アメリと雨の物語』を観ていて、前述のとおりビジュアル面では『言の葉の庭』を、ストーリー面では『未来のミライ』を思い出した。『未来のミライ』は公開当時、その受け取り方が分からず困惑したものだが、色んな解説や感想を読んで、紐解き方が多少分かったという経緯がある。その過程で培った感性で『アメリと雨の物語』も楽しむことができた。意外なところで色んな作品が繋がるものだなぁ、と改めて作品鑑賞の不思議を思ったのだった。