ひるねゆったりの寝室

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僕は「帆高っ、走れぇー!」と叫べない――『天気の子』の話

ネタバレオンリーです。

 

『天気の子』のクライマックスの逃走劇がとても好きだ。
道路交通法を無視し、自転車を窃盗しかけ、線路を走る。
走る帆高の必死さが、観ている側にも伝わってくるようだ。

このシーンを見る時、胸に去来するのは、
「自分は帆高にはなれなかった」という諦念だ。

もし僕が同じ状況なら、まず警察署を脱走しないし、夏美のバイクに飛び乗れないし、有刺鉄線が怖くて柵を越えられない。
線路の上でお腹が痛くなって歩く。
もっと言えば、陽菜と一緒に逃げようなんて思わず、ただしょんぼりとして実家に帰るだろう。

そうやって考えると、この映画の開始時点から、帆高は僕に出来ないことをやってのけているのだ。
腰抜けな僕はそもそも家出が出来ず、よしんば出来たとして、風俗店のボーイの面接を受ける勇気はない。チンピラから陽菜を助けるなんてもっての他だ。

この映画で帆高と向き合っている時、
僕は常に、自分がいかに保身に終始して生きてきたかを突きつけられる。
それは陽菜への接し方でもひしひしと感じる。

生活に困る少女がいたとして、僕は間違いなく、知り合って以降接触を避ける。
可愛かろうが好きだろうが、危ない橋は渡らないに限るのだ。
つまり、非常に器の小さい人間である。

そんなわけで、帆高は僕にとってはまぶしい存在だ。
それだけなら「彼のようにはなれなかった」と過去形で片づけられるのだが、
この映画はそれで許してはくれない。
須賀と夏美の存在があるのだ。

無責任な観客である僕は、夏美と一緒に「帆高っ、走れぇー!」と内心で叫べる。
けれど、もし自分が夏美と同じ立場だったら、本当に同じことが言えるだろうか。

そして、それは須賀にも共通している。
彼は映画の終盤間際まで僕の側の人間だ。退職金を渡して穏便に済ませようとするその姿、まさに保身そのものである。

ところが、最後の最後で彼は帆高の背中を押す。手錠をかけられる決心をしたのだ。
ここで僕は、この映画の人間と自分との間に、決定的な断絶があることを、毎回思い知らされる。

「帆高になれなかった」だけではなく、
「お前は将来、須賀になることも出来ないんだよ」と指をさされている気がしてならない。

『天気の子』が若者への応援歌であることは疑いない。
それと同時に、僕の醜さを糾弾する映画でもある。
いつか、自分の責任で「走れ!」と誰かの背中を押せるようになりたい。
「大丈夫」と言える人間になりたい。
そう思わせてくれるから、僕は帆高の疾走が好きなのだ。