ひるねゆったりの寝室

アニメとか漫画とか映画とかの感想を書いていきます

『ゆるキャン△』を観た

タイトル通り、TVアニメ『ゆるキャン△』を観た。

可愛い女の子のワイワイと、キャンプそのものの薀蓄を楽しむ感じの作風で、結構面白かった。

中でも興味を持ったのは、主人公のなでしことリン、そして野クルのメンバーたちの距離感だった。

リンはソロキャンプ、野クルはサークルキャンプ、その両方に属するなでしこ、という関係性が、リアルな感じで、最後にみんなでキャンプをするのが、ちょっと感動的。

他にもテント設営だったり、料理だったり、現実的な描写はとても実在感があって、それも観ていて心地よかった。本当のキャンプを観ているような気持ちになれたから。

 

あと、舞台が寒い時期のキャンプだった、というのも新鮮。自分の中ではやっぱりキャンプは夏、という認識があったので。

「虫がいない」とか、リンが色々利点を挙げていたけど、そういうリアルな理由を脇に置いておくと、白い息を吐く彼女たちは、それだけで画的な魅力があったと思う。

「怪人ブランケット」とか、冬らしい装いがいっぱい出て来る作品だったし。

 

自分でキャンプをしたい、と思えるほどフットワークは軽くないけど、アウトドアもたまにはいいかもなぁ、とは感じました。面白かったです。

あ、それと、東山奈央さんがリンだって、途中まで気付かなかったです。意外な役どころでしたね。

TVアニメ2期も楽しみに待ちます。

20190506日記

10連休も終わるので、その締めくくりに振り返ります。

今回の連休、旅行には行きませんでしたが、久しぶりにクラシック音楽を少し聞くことが出来ました。

きっかけとなったのは、GW前に観た『劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ』です。高校の吹奏楽部を題材にしたシリーズですが、私はこの作品のファンでして、今回も存分に楽しむことができました。

これには個人的な理由があります。というのも、私は中学時代に吹奏楽部をやっていたのです。『ユーフォ』を観る度に、懐かしさを覚えたり、当時の腹立たしさ、充実感なんかを思い出します。作品の出来や内容以前に、思うところの多い作品ですね。

で、吹奏楽部時代の魂を呼び起こされた私は、原作最新刊まで読み、さらにクラシックが題材の有名小説『蜜蜂と遠雷』にも手を出し、GW前半に音楽気分を高めました。

 

そしてGW後半に、クラシックのコンサートに2回、足を運ぶことにしたのです。ひとつは「ラ・フォル・ジュルネ」という音楽祭。45分程度のショート・コンサートが1日中組まれていて、その中の1プログラムを観ました。

ふたつ目は「交響楽団はやぶさストラヴィンスキー 第4回演奏会」です。こちらは医療系の学生が中心となったアマチュアオーケストラの演奏会で、指揮者に外国の方を招いたものになります。

定期演奏会は他にもあったのですが、これを選んだのは、ストラヴィンスキー作曲の「火の鳥」というバレエ楽曲が曲目に入っていたからです。

中学2年生のコンクールでの自由曲が「火の鳥」だったので、それを生で聞けるまたとない機会だと思い、チケットを買いました。

 

どちらも良い演奏で、そして良い演奏過ぎて、眠くなってしまいました。クラシックの良い観客になるには、まだまだ道が遠いようです。

あと、「火の鳥」なんかは元の曲を演奏した経験があるだけに、脳内に「これが自分の理想の『火の鳥』だ」みたいなイメージがあり、それと違うのが少し気になってしまいました。もっと色々な演奏を聞いて、視野を広げないとダメですね。

今年は他にもクラシック音楽のコンサートに行こう、そして色んな曲を聞いてみよう、と思ったGWでした。

20190503日記

真面目な記事を書くと疲れる、が、何も書かないと本当に文が書けなくなっていってしまうので、練習がてら、つらつらと書くことにしました。

この間、『五等分の花嫁』という漫画を、電子書籍(honto)で買いました。Kindle以外を使うのは初めてだったんですけど、中々使い勝手がいいですね。会社の後輩が熱烈にhontoを推していました。

中身は意外に、あまり現代的でない内容だなー、という印象を抱きました。というのも、あんまりスマホが出てこないので(経済事情が絡んでいるのですが)。すれ違いも、物理的なものが多いですし。あと、変装ネタとかもちょっと今時っぽくないのかな、と思ったり。

でも絵は逆に凄く「今!」って感じがしました。トーンの使い方なのか、ベタの入れ方なのか、構図なのか、テンポなのか……。まあ結局よく分かんないんですけど、すごく実在感のある画作りだな、と思いました。

いよいよ佳境、という感じなので、これからが楽しみです。

お約束と挑戦――静野孔文監督時代の『劇場版名探偵コナン』

『劇場版名探偵コナン(以下『劇場版コナン』)』シリーズには、現在までで4人の監督がいる。
この記事では、昨年卒業した、3代目(15~21作目)の静野孔文監督時代を振り返る。
私は12作目から劇場に通うようになった人間なので、リアルタイムで追いかけられたのは静野監督が初めてだ。
刺激の強い作品が多く、劇場でいつもドキドキさせられた。
その楽しさ・気持ちよさを少しでも分解してみたい。

 

静野監督期の『劇場版コナン』とはなんだったのか。
簡単に言えば、お約束への挑戦の季節であった。この挑戦は二種に分けられる。
1つは「アクションという新たなお約束」の確立。
もう1つは「旧来のお約束の革新」だ。
チャレンジ精神に溢れた7年間を、1作ごとに振り返りたいと思う。

 

★『漆黒の追跡者』の成功


いきなり静野監督が関与していない作品を挙げてしまったが、実はこの作品が静野期の土台になったと私は考えている。
この映画での革新的なポイントは大きく分けて2つ。
1つはレギュラーキャラの増加。
合同捜査本部の面々と、組織の追加メンバーの登場は、地味ながら大きな変化だ。
特に『異次元』以降の「原作と足並みをそろえる」路線に至るための、
助走になったことは、間違いない。
もう1つのポイントは、アクションの変質だ。
『劇場版コナン』は、元々アクションが多いシリーズではあるが、
実はコナン自身が超人的な動きをする機会は少なかった。
ところが本作ではコナン自身が肉弾戦をし、
機銃掃射を走って逃げ、最後は若干無茶な方法で組織のヘリを撃退する。
これによってコナンの身体能力は底上げされ、
以降の作品でさらに力を入れられることになる。

 

★全ての始まり『沈黙の15分


オープニングの地下鉄爆破と終盤のダム決壊。
2つのスペクタクルに挟まれたこの作品が、静野監督の第一作だ。
揺れるカメラに、長いアクションシーン。
静野期で多用された演出が、すでにこの時点で全開だ。

 

特筆すべきは終盤のダム決壊。
爆弾が全て爆発し大量の水が流れ出す。
コナンは水に襲われる村を救うべく、スノボーを駆って雪崩を起こす……というのが流れ。
荒唐無稽で現実的には思えない筋書きを、
この映画は「コナンならできる!」というテンションで大真面目に描き切る。
どう真面目にやるかと言えば、

「雪崩を起こす」という情報をギリギリまで伏せておき、
コナンが濁流とギリギリの競争をしている様子を丹念に見せる。
「何だかわからんがコナンが凄いことをやりそう」という緊張感で間を持たせるのだ。

 

原作やTVシリーズがある以上、ハッピーエンドになるのは観客も分かっている。
だからこそ、スペクタクルの過程こそを魅力的に(この場合は緊張感たっぷりに)描く。
静野期の大きな特徴だと言えるだろう。
その後、雪に埋まったコナンを捜索する場面も、その精神が発揮されており、
探偵団が大泣きしたり、蘭が叫んだり、妙にドラマチックなのである。

 

★情熱的な意欲作『11人目のストライカー


いきものがかりの起用が話題となった本作では、映像の質感が大幅に変更された。
キャラクターの色が明るくなっただけでなく、
内側からぼんやりと発光するような処理が加えられている。

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↑(左:『沈黙』での質感イメージ、右:『11人目』での質感イメージ)

 

変化は光の使い方にも表れている。
環境光の設定によって、光源に近い場所が明るく、
遠くなるほど暗くなるという効果が施された。
これによって、人物の色合いもグラデーションになっている。


さらに、ピントの調節も細かくされており、
毛利探偵事務所の室内でも、
カメラの手前のものがぼけるなど、
レンズを意識した演出がなされた。

 

また、本作はドラマに力を入れた作品でもある。
人命のかかった大役の前に震える、生意気な若手Jリーガー。
思い出のスタジアムを、記念時刻に爆破する犯人。
叫ぶようなコナンの犯人説得。
コナンがJリーガーと秘密の練習をする場面では挿入歌が流れたりと、
サッカーに対する様々なキャラの思いを、力強く伝える作品である。

 

★ハイターゲットな『絶海の探偵』


櫻井武晴氏を脚本に迎えた初めての作品。
イージス艦という舞台設定、スパイの存在、ショッキングな遺体、と異色づくしだ。

 

この作品における挑戦は、某国のスパイ「X」の存在の難解さである。
Xは悪事を働いてはいるが、
それは殺人や強盗のような明快なものではなく、情報の窃盗である。
つまり彼がどうして悪人なのかが分かりづらい。


「Xが殺人犯の可能性がある」「Xが子供の父親の振りをしている」という2つの疑惑や表情によって、彼を分かりやすい悪役に見せるが、
それ以外の部分では、観客側が国防や機密情報といった概念を理解している、という前提で話が進む。
『漆黒』でのノックリスト争奪戦を発展させた、大きな挑戦だった。


『沈黙』『11人目』に比べて地味な映像が続く本作で、
興行収入を記録更新したこにとは、大きな意味があったはずだ。
それは櫻井氏のメインライター化と、次作以降のハイターゲット路線に繋がっていく。

 

★全盛期が始まる『異次元の狙撃手』


前年の『絶海』、そして『ルパン三世VS.名探偵コナン THE MOVIE』を経て、
興行収入が40億円台に突入した今作。
コナンの右肩上がりの興行を、決定づけた作品である。

 

『異次元』では『絶海』のハイターゲット路線を継承しており、
アメリカ軍の海兵隊が題材となっている。
加害者も被害者も戦争経験者、という経歴はシリーズ中でも異色だ。


特に目立つのは、英語の台詞が多い事だ。
外国人同士の台詞の応酬は、英語でされるため、字幕がないと分からない。
内容も複雑であり、観賞者の年齢を、洋画を字幕で観られる年頃(恐らく中学生程度に)見積っている。

 

さて、今作は『漆黒』と共通点が多い。
原作(とTVシリーズ)に登場しているキャラクターの銀幕デビュー、
コナンが現場を足で調査する、展望台での攻防戦、
そして次作の題材がキッド、次々作がアニバーサリーイヤーという位置づけ。
共通している分、違いも分かりやすい。
『漆黒』が終盤に至るまで地道な調査を続けるのに対し、
『異次元』はオープニング、中盤、終盤と何度も犯人との対決が繰り広げられる。
世良が重傷を負うというサプライズ要素もある。
これまで積み上げてきた、緊張状態を優先する作風が大いに発揮されたと観るべきだろう。

 

また、本作ではまた映像の質感が変更された。
内側から発光するような処理は抑えられ、輪郭線と影がはっきりしている。
他にも、『沈黙』から部分的に使用され、『絶海』で本格導入された、
顔の輪郭線(やパーツの線)を太くする作画が今回は頻出する。
カメラがキャラに近づくにつれて、輪郭線の強弱が大きくなる演出だ。
ペンで力強く描いたような線によって、決め顔が明確になり、表情が印象に残る。
『から紅』まで続く、静野期の映像の最終形だ。


★一気呵成の対決『業火の向日葵』

 

この映画がずば抜けているのは、「最初から最後までキッドが格好いい」ところである。
従来怪盗キッドの登場作品は、
途中から(あるいは序盤から)キッドの存在感が薄くなる傾向にあった。
その中で本作は、終盤まで深く絡み、敵としてコナンの前に立ち塞がる。
この緊張感によって、キッドの格好よさが際立つのだ。
本作特有の、風に吹かれながら意味ありげに笑うキッド、という絵面はそれだけで痺れる。

 

また、本作はゲストとレギュラーキャラのドラマが濃い。
おばあさんと灰原の恋を示唆するような会話、
苛烈な正義感を持つチャーリー、
寺井の願いを叶えようとしたキッド……等々。
最後の場面が「チャーリーがキッドを見逃す」ところで終わるように、
(あるいは灰原が冗談めいた口調で恋心を認めるように)
事件がキャラの心にやや変化をもたらす、少し切ない風味の作品だ。
『絶海』でのコナンと勇気、コナンと藤井一佐、と
同じようなアプローチである。
この路線は、次作『純黒』で大成することとなる。

 

本作は屋外シーンの多かった『異次元』に対して室内シーンが多い。
そのためか、部屋によって画面の色合いも変わる。
光源や環境を意識したアプローチは健在だ。


★ハッピーエンドになれない『純黒の悪夢


『純黒』は非常にシンプルな映画だ。
敵は黒の組織、味方はそれ以外、と勢力がきっちり分かれている。
そして、キーとなるキャラは、記憶を失った敵。
彼女の記憶が戻るか否かが、サスペンスの根源だ。

 

さらにもう1つ、大きなサスペンス要素がある。キュラソーの顛末だ。
『劇場版コナン』には原作とTVシリーズがある以上、
キュラソーは死ぬ、あるいは作品世界から退場するのは、公開前から明らかだ。
それによって、探偵団とキュラソーが親しくなるほどに、
彼女がどんな結末を迎えるのが気になる、という緊張感が生まれる。
そして、この2つのサスペンスがクライマックスで結ばれる。

 

今作のラストを飾る観覧車アクションには、大きなポイントがある。
それは「コナンでもどうにもできない」点だ。
花火ボール、サスペンダーに巨大サッカーボールと、
近作で印象的に使われたアイテムを全て使うが、
それでも暴走した観覧車は止まらない。
その窮地を救うのが、キュラソーの決死の突撃である。

 

『11人目』『絶海』『異次元』など、
これまでもコナンが他のキャラと協力して事件や事故を解決する描写はあった。
しかし、『純黒』のそれは毛色が違う。
赤井の「よくやったな、坊や」という台詞に、コナンは浮かない顔をする。
なぜなら彼は、キュラソーが命を落としたと察しているからだ。

 

『沈黙』の欄で、原作があるからハッピーエンドになるしかない、と書いたが、
この作品はそれを逆方向に突き詰めている。
原作があるからハッピーエンドにはなれないのだ。
ED前後にギャグもはさまず、今作はしんみり終わる。
派手なスペクタクルを大真面目にやってきたからこそ、この結末も深刻なものになる。
静野期の到達点だ。


★恋愛映画だった『から紅の恋歌


キャラクターのドラマを中心にしていた前作から一転して、
連続殺人(と未遂)事件の謎を解く手堅い作品だ。
コナンを評して「殺人ラブコメ」と原作者は言うが、
今作ではそれが如実に表れている。
平次と和葉、そして紅葉の恋模様。それと並行して起こる事件。
まさにコナンらしい作品だ。


その中でも特筆すべきは、恋愛要素とミステリー要素が解離していないことだ。
従来、劇場版における恋愛要素は「コナンが蘭のピンチを救う」
「蘭が事件の中で新一との思い出を振り返る」など、
事件とは間接的な位置づけにされることが多かった。

 

本作も、終盤で謎解きが始まるまではそう見えるが、
事件の真相がわかるとガラリと衣替えをする。
一連の事件は全て、夫が亡き妻のためにしたことで、
その根源となった別の事件さえも、ある男の初恋が発端だった。
愛情の光と闇が描かれた、まさに恋愛映画だったのである。

 

この仕掛けが成立するには、それまでのラブコメ要素が
きちんと「いつものラブコメ」に見えていなければならない。
本作の恐るべきところは、そこである。
脚本は初登板の大倉崇裕氏が手掛けているが、レギュラーキャラの描写に全く違和感がない。
名探偵コナン』らしいキャラの掛け合いによって、おなじみのラブコメを見ている気持ちになるのだ。

 

演出も、今までになく軽快でコメディらしい。
コナンが慌てて移動しながら「眠りの小五郎」をやる、
蘭が効果音を立てながら素早く退散する、
阿笠博士FaceTimeで電話をかける、など、
細かいところで雰囲気を軽くしている。
個人的には明るい映画だという印象を受けるのだが、
それはこういう描写が多く仕込まれているからだろう。

 

★静野監督期を振り返って


振り返ると、静野監督期は作品を盛り上げること、
そして新しい風を吹かせることに意欲的だった。
ミステリー、スペクタクル、コメディ、新一と蘭の関係……
どの要素も『劇場版コナン』を『劇場版コナン』たらしめているものだが、
その配分を実験し続けた7年間だったのだと私は思う。

 

今また『ゼロの執行人』で新たな扉が開かれたが、それは静野期なくしては成立しなかったはずだ。
アクションやスペクタクルを軸にして、異色のコナンを作り続けた静野期は、
これからもシリーズの礎になっていくことだろう。
挑戦は当たり前。
そんな静野期が、私は好きなのだ。

『ハリー・ポッター』シリーズとのお付き合い

この前、久しぶりに『ハリー・ポッターと賢者の石』を観た。『ファンタスティックビーストと魔法使いの旅』を観て、「ハリー・ポッター」シリーズへの熱が再び高まったのである。

私は映画の「ハリー・ポッター」シリーズにはリアルタイムで付き合ってきた。『賢者の石』を映画館で観た後、原作も読むようになり、『秘密の部屋』以降は原作を読んでから映画を観に行くようになっていた。シリーズに触れた最初が映画版だったことから、私の頭の中の「ハリー・ポッター」の世界は映画版を基本にしてできている。ホグワーツの見た目や、動く階段、肖像画、杖、ダイアゴン横丁など、原作小説を読んでいて想像するのは映画版で観た風景だ。勿論映画版より先に原作を読むようになった結果、まだ映画で触れられていない風景は自分の脳内で作るしかなく、その場合は脳内の風景と映画版の風景の二つが出来ている。

 映像化されたものから触れてしまう場合、どうしてもイメージがそちらに引き摺られてしまう。自分の想像による楽しみはどこかへ行ってしまうのだ。だが、私は「ハリー・ポッター」シリーズに関してはそれで良かったと思っている。なぜなら、映画の方が私の頭より想像力が豊かだからだ。私の頭からはどうやってもホグワーツのビジュアルは出てこなかっただろうし、ウィーズリー家の食卓を細かく想像することも難しかっただろう。

特に私の場合、小説を読んでいて景色を想像する時は、自分の知っている場所と置き換えることが多い。「ハリー・ポッター」シリーズを愛読していたのは小学校時代なので、自分の通っていた小学校の廊下や教室と置き換えていた。『不死鳥の騎士団』の神秘部の場面なんて、私の脳内では小学校の図書室である。自分の頭ではどうしてもスケールダウンしてしまうところを、映画は細やかなディテールや予想外のデザインで見せてくれる。映画版はカットしている場面が増え、勿体なく思う事も多かったが、新しいビジュアルを多く見せてくれたのは間違いない。

『賢者の石』はハリーが初めて魔法界に来たワクワクした気持ちを、ディテールで見せる作品だ。煉瓦が崩れてダイアゴン横丁が眼前に広がる衝撃や、箒に乗って飛ぶ躍動感、動く写真に肖像画、マグルの世界とは違う習慣など、初体験のつるべ打ちだ。その「初めて」をハリーと一緒にスクリーンで体験できたのは幸運な体験だった。そしてそれは『ファンタスティックビースト』にも受け継がれている。自分の想像を大きく超える体験を、これから4作も味わえるなんて、幸せなことだ。今の小学生や中学生がワクワクできるようなシリーズになったらいいな、とも思っている。そんな期待をしながら『秘密の部屋』を観て、次作を待つことにする。

【ネタバレ】映画『この世界の片隅に』感想―戦争映画です。でも、笑っていいんです

映画『この世界の片隅に』を観に行った。

浦野すずという絵を描くことと空想が大好きな女の子が広島に育ち、呉の北條家に嫁いで生きていく。その人生と重なるように太平洋戦争が本格化し、その生活にじわじわと影を落としていく物語だ。

 

この映画では笑えるところがたくさんある。すずが余りにもぼんやりとしているため、小さな失敗を繰り返す。それは決してすずを笑いものにするような冷たいものではない。周囲も愛らしさを感じていたし、何よりすずがそれにくよくよしない。すずを気に入らずにちょっかいをかけてくる義理の姉ですら懐柔する大物感だ。

その笑いは戦争の生活苦ですら笑えるシーンに変える。少ない配給と野草を駆使して楠木公の料理を再現するすずの姿は生き生きとしており、その自慢げな様子からの「まずい」というオチは、作中でもかなり手の込んだギャグに仕上がっている。

場内も笑いに包まれており、前半は和やかな空気の中進んでいく。

 

ところが、後半に入ってそれが一変する。

空襲を受けた後、町を歩いていたすずと姪・晴美は不発弾の爆発に巻き込まれてしまう。その時、すずは右腕を、晴美は命を失くしてしまうのだ。

空襲警報に早朝から起こされ、防空壕の中でご飯を食べ、「警報もう飽きた」と晴美が言うほどに空襲が日常化していた矢先の出来事だ。心のどこかで「この映画は空襲で身近な人が死ぬタイプの作品ではないんじゃないか」と思い始めていたため、ショッキングだった。

そのショックはすずにも降りかかる。義理の姉からは「人殺し」と罵られ、片腕を失くしたから家事も十分にできず、家のお荷物となっていく。すずの顔からも笑顔が消えた。

多くの人から「生きていてよかった」と言われたことを思い返し、「何が良かったんだろう」と独白する場面はその極致だ。生きがいだった絵を描く事ももうできない。すずにとって、右手はただの道具ではない。絵を描き、料理を作り、裁縫をし、家族と手を繋いだ、人生の記憶がつまった宝物だったのだ。

 

笑顔を失ったすずの思いが爆発する、終戦直後のシーンがある。

「最後の一人まで戦うんじゃなかったのか! この左手も、両足だってまだあるのに!」とラジオに向かって叫ぶすず。そして、「ずっとぼおっとした自分でいたかった」と涙をこぼす。ここで前半の描写の意味が大きく変わる。生活苦の中の笑いは、何もすずの人格だけに由来したものではなかったのだ。あれは苦境を乗り越えようとする、すずや人々の戦いだったのだ。戦争が忍び寄ってきても「変わらない暖かな家族」だったのではない。戦争が日常に表れたからこそ、「変わらない暖かな家族」を演じなければならなかったのだ。

 

勝つために苦難に耐えるという目標が無くなった後も、すず達は生きていく。

「晴美ちゃんは笑うことが好きだったから、笑うことにしたんです」とすずが語った時、私は「この映画で笑ったことは、正しかったんだな」と思った。演じていた部分もあるだろうけれど、その笑顔は嘘だったわけではない。宝物の腕を失くしても、大切な家族が亡くなってしまっても、生きていかなければならない。人生先は長いのだから、笑ってもいいのだと。そんな風に、背中をさすってくれるような映画だった。

『君の名は。』と『サマーウォーズ』

これは僕達のアニメ映画だ

 

2010年3月に『サマーウォーズ』を観たとき、私は今までにない興奮を覚えた。「こんな面白いアニメ映画があったなんて!!」と驚愕したのだ。当時の私は中学3年生。劇場で公開していた時は存在を知らず、親がレンタルしてきたDVDで初めて『サマーウォーズ』に触れた。

自分の地元が題材になっている親近感、OZの世界の想像力、家族ものでありながら湿っぽくない空気感、三段構えのクライマックス。その全てが合わさって、単純に「面白い!」と思わせた。当時『劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』は視聴済みだったのだが、それが気にならないぐらい面白く感じた。初めて同じ映画を2日連続で観たほどだ。

私が『サマーウォーズ』を強烈に面白く感じたのは、内容が自分好みだったのもあるが、「ついに自分が探していたアニメ映画に出会えた」という感触があったからでもある。当時の私にとってアニメ映画とは、ジブリ作品のことだった。小さいころからビデオやテレビでジブリに育てられた私は、当時のジブリ作品に満足できなかった。『ハウルの動く城』『ゲド戦記』『崖の上のポニョ』と、宮崎駿監督や吾朗監督の作家性が前面に出た作品ばかりで、「普通に面白い」と言える作品が無かったのだ。そんな時に『サマーウォーズ』に出会った。

エンターテイメントに徹した作品の気持ちよさに、「これは僕達のためのアニメ映画だ!」と直感した。今から考えれば『サマーウォーズ』を楽しめない同年代の人も大勢いただろうが、その時に「僕達」と思ってしまうくらい、自分以外の若者も楽しめると勝手に思い込んでしまうくらい、私を引き寄せた作品だった。

 

そして2016年8月。再びその興奮を君の名は。が連れてきた。

男女の入れ替わりから生じる軽妙な作劇。時間と距離を飛び越えた真相。想像を遥かに超える規模の災厄。引き裂かれる二人の過剰なまでにセンチメンタルなメロドラマ。世界を自分で救ってやろうとする傲慢さ。それが許されるテンションの高さ。サービスにサービスを重ねる豪華さはまさに『サマーウォーズ』だ。そして何よりも、作り手のサービス精神が自分たちに向いていることが、物凄くありがたかった。

思えば、最近のアニメ映画は必ずしも「僕達」に向けて作られていたわけではなかった。『風立ちぬ』も『かぐや姫の物語』も特定の年代を意識して作られてはいなかった。『思い出のマーニー』は思春期前半の子ども向けだったし、『バケモノの子』の前半は明確に小さな子供に向けて作られていた。

面白いアニメ映画は数あれど、そこに「僕達」はいなかった。「家族向け」が見たいわけじゃない、「感動したい」わけでもない、「ひたすらに面白い」アニメ映画が見たい。そんな欲求に応える快作が、『君の名は。』だ。「僕達」の夢みがちな恥ずかしさも、運命の相手を懸想するバカなところも、全部詰め込んだうえでエンターテイメントにしてくれる。そこに私は『サマーウォーズ』との近似を感じ、「これは僕達のアニメ映画だ」とまた思ってしまうのだ。